その日、捜査本部には妙な空気が流れていた。
 日本から海を渡り拠点をアメリカへと映していた総本部。信頼と疑惑と戸惑いに満ちた面々の態度に、何も気づかぬ顔でやり過ごすのにも慣れた夜神月は、いささかの違和感を感じ取った。
 それはほんの僅かな、塵芥ほどの違和感。
 いつも能天気な松田桃太は全く、いつもと同じ顔つきで夜神に笑いかけ挨拶をする。だが、他の面々の様子が違うことは、既に彼の中では確定事項だった。自分でもそうするだろうからだ。何事かあったとしても、松田桃太だけには教えまい。
 しかし多少流れる空気が違うからと、今日の約束を反故にする訳にもいかない。そう、今日は新世界に仇名す子どもを、葬り去る晴れやかな日となる。


 筈だった、のだ。





// 今日も死神は嗤う //





 白髪の子どもに、追い詰められるかつての神気取りの敗者。
 己の信条を崩さず、高らかに笑う夜神月に、理解不能なものを見る顔を向けている捜査本部のメンバーたち。彼らは自分の上司が、かつての上司の息子が、その綺麗で優秀な首から上に一体何を詰め込んでいたのか、今ようやく知ったのだ。そして、自分たちが到底辿り着けぬ地にいる夜神月へと、畏怖と嫌悪に満ち満ちた視線を突き刺していく。夜神月は、自分の部下を、かつての父の部下を、一顧だにしなかった。その背は理解されないだろうことを既に前提として、愚民がと周囲を完全に見下していた。完全を体現する夜神へと聞こえるように、ぺたりぺたりと特徴ある足音で、1人の男が歩み寄る。
 その冷ややかな背が、一瞬で狼狽へと覆い潰される様を、男は愉しんだ。
「……エル、」掠れた声は、動揺を表すには十分に事足りた。夜神月はビスクドールよりも顔を青褪めさせ、悠然と立っていた足はふらりと揺れた。
「お久しぶりですね、月君」
「お前…、お前、…何故……」
「何故?あぁ、何故殺したのに死んでいない?=v
 くつくつと、男は―――Lは、猫背を更に丸めて笑う。細めた視界の中で、夜神月はLだけを睨みつけている。黒々と縁取られた目のクマ、よれた安っぽい衣服、青白い顔色―――大差ないのだから死人でいればいいものを、と夜神は毒づいた。
「知りませんよ、そんなこと―――あの白い死神は、死神にも当てはまるかは知りませんが、死んだのでしょう?死神は私ではなく、ワタリの名を先に書いた。そういうことではないですか?」
「……っ、」
 ぎり、と夜神は形の良い唇をかみ締めた。既に死の定まった死神の足掻きは、なかったこととなるのか―――本当にそうなのかは、Lは知らない。知るよしもない。ただ、己が名を記されても尚、生きているのならば理由らしきものはそれだ。
「貴方のお父さんにも協力を頂きまして、私は一旦死にました。ワタリがああなったのなら、次は私だ。実際、そうだったようですが」
「何故、4年も?」
「貴方を」男は一度言葉を切った。
「貴方を、完璧に追い詰めるには、時間が必要だったのと……そう、貴方の創りたかったものを」
「無意味だと、言いたくて」
 この数年間でどれ程の犯罪者が胸をかきむしり死んでいっただろう。どれ程の人間が恐怖を募らせたことだろう。犯罪率は確かに減少した。凶悪犯罪と呼ばれるものも減った。だが世界では変わらず人は死に、戦は起こり、それを裏でほくそ笑む人間はいる。ならば夜神月の目指したものとは、何処に存在し得るのか。
 その為に4年待った。確かに時間は必要だったが、実際に4年必要だったかはLしか知らない。ただ、夜神の顛末を見届ける為だけに月日を費やしてみせる、その程度のことはする男だった。
「っは、」
 夜神は嘲笑した。既に刑事たちは彼の周囲を取り囲み、ノートは男の側にある。それでも尚、夜神は整った相貌を崩そうともしない。
「馬鹿だなエル。何事も、やり遂げてみないと判らないじゃないか」
 そう言って、夜神はLへと視線を流した。
「ま、少なくとも退屈しのぎには十分だったね」
「……、月君…っ」
 悲痛な呻きは松田から洩れた。純朴な男は、何処かでまだ夜神月を信じていたらしい。ショックを受けた部下の姿も、夜神には何ら影響はなかった。それどころか、夜神はまだ完全には事態についていけてない彼らを尻目に、静かに手を滑らせる。その動きはあまりにも自然で、ささやかで、ただひたすら夜神を注視していたLだけしか、気づかなかった。
「…とめろ!」
 その叫びに、ようやく刑事たちは青年を拘束する。後ろ手に捻り上げ、そして夜神の腕に嵌っていた時計を急いで外した。そこに収められているものが何か、この場にいる誰もが予想つく。
「あーあ」
 くすくすと、夜神は残念そうな顔を作ってみせた。積み上げたブロックがうっかり崩れてしまった時に子どもが見せる、そんな表情だった。
「今度はちゃんと、書いてやろうと思ったのに」
 そして、声にはせずに唇の動きだけで、夜神は紡いだ。それはあの白い死神がノートに残していたのだろう、対峙する好敵手、Lの本名。
「残念」
 そして夜神は、視線をLから外し上方へと向けた。Lはただ夜神ばかりを見ている。
「リューク。どうする?僕の名前、書くか?」
『……くくっ、さて、どうすっかなー…』
「どうやら、今回は負けたみたいだけど、僕?」
『あぁそーだな。お前の負けだ、夜神月』
 黒い死神は夜神の頭上でへらへらと、ふざけきった格好で笑っている。
『今は書かねー。お前の希望通りになんのも面白くねーし、それに』
 死神は裂けた口から白い牙を覗かせた。
『もっと面白、そーな事がありそうだ』
「…邪魔をするな、死神。夜神月の身柄は私たちで確保している。お前の出る幕ではない」
『おぉ、怖』
 くるりくるり、死神が回る。
「L」
 それまで沈黙を保っていたニアが、ようやく口を挟んだ。
「L。夜神月の身柄は私の方で確保させて頂きます。彼は私が捕まえた」
「それは了解しかねますね、ニア。夜神月は到底、貴方の手に負える人間ではない」
「私とメロが、キラに勝った。貴方は何ら関わっていない」
「そう、思いますかニア?よもや貴方やメロのような子ども程度に、キラがどうにかなると?思い上がりも甚だしい」
 夜神月に対してはずっと慇懃無礼かつ挑発的な態度を取り続けていたニアも、相手がLであれば多少は刃も弱まるらしかった。


 結論から言えば、夜神月の身柄はLの元にあった。夜神はかつてのように拘束され、独房に放り込まれ24時間完全監視体制に置かれている。そして彼の頭上では、今も死神が妙なダンスを舞っている。
「エル、聞こえているだろう?」
『…何でしょう』
「懐かしいね、これ。あの時と同じ独房にいるみたいだ。それはさておき…エル、ねぇ、気づいてるだろう?」
 くすくすと、小さく夜神の背中が揺れる。
「そのノートを破棄した瞬間、僕はキラではなくなるよ」
『…えぇ』
「何も知らない。キラを全面否定する、正義感に溢れた1人のエリート警察官。独房にいるのはそんな人間だ、エル。こんな所で監禁されておく謂れなど、何ひとつない、ね」
 それこそがLの迷いでもあった。男は覚えている。かつて、キラであった夜神月が、独房の中一瞬にしてただの青年となったあの瞬間のことを。記憶を失い、キラを追う、正義やら公正やら、そんな言葉を具現化したような、夜神月。
『…それでもお前はキラだ』
「お堅いことだ」
 その答えはある意味当然だった。あの夜神月はまるで奇跡のように純粋で、研ぎ澄まされた刃と新雪の儚さを見事に併せ持っていた。とても綺麗で愛されるべき人間。だが、キラとて、その夜神月はやはり核に存在するのだ。今、Lとカメラ越しに相対する、ゆったりを足を組みこちらを見上げてくる、夜神月は。
「……竜崎!」
「…何ですか」
 緊迫は唐突に破られる。息せき切って駆け込んできた松田桃太は、呼吸を整える間も惜しんで報告をする。
「ニア、が…っ、彼が、キラの逮捕を公式に発表しました…!」
『おや』
 面白そうに、夜神月は小首を傾げた。うっかりと通信マイクのスイッチは入ったままだ。
『ふふ、ニアの奴、お前に腹を立ててるんじゃないかな?腹いせだなんて、やっぱり子どもだ』
 状況が判っているのかいないのか。夜神月の悠然とした態度は崩れない。そしてLは、これからやって来るだろうひと悶着に、早々に頭痛を覚えた。


 世紀の大量殺人犯、キラ―――夜神月。流石にノートの存在までは発表されはしなかった。オカルト的な代物を、公式に認める訳がない。だが、噂は隠れた真実として広まっていく。名を記されると命を落とすノート。それを駆使して世界を一掃しにかかった1人の青年。その卓越なる頭脳、類稀な容姿。全世界を舞台をする覆面探偵、Lと同等に張り合った―――
 夜神月の身柄を、先進国は我も我もと欲しがった。ノートさえなければ彼に人は殺せない。その罪は大きすぎるが、その頭脳をむざむざ失うのはそれこそ惜しい。ならば、と。Lは昨日今日だけでどれだけの国に喧嘩を売ったのか判らない。交渉だか駆け引きだか競争だか脅迫だか、よくもまあくるくる回る舌だと、我ながら褒め称えたくなる。カメラの向こうでは夜神月がのんびり寛いでいるのも気に食わない。だから、少しばかり手落ちがあったとしても仕方ないのではないだろうか、とLは思う。
 上手く獲物をつり上げたのは合衆国だった。夜神月は全く異を唱えることもなく、合衆国の大仰なセキュリティに囲まれた、広い金庫の中へと仕舞い込まれた。彼らの常套句は幾らでも想像できた。夜神月は自分の家族を心から愛している。今の日本に彼の家族の住む場所はない。Lより合衆国に分があった。それだけのことだった。
 夜神月の置かれた環境はまさしく箱庭だった。外部からの接触は一切断たれ、行動の全てに監視がかかる。深窓のご令嬢の如き待遇の、見返りに求められたのはその頭脳。家族を人質にされているからか、それともその完璧に近い頭脳を動かさずにはいられないのか、夜神月は表舞台に立つことなく、だが要求された水準をはるかに上回る結果を出し続けた。


 キラを捕らえた立役者である所のLの元には、今日も怪事件が舞い込んでくる―――くるにはくるが、その件数は極端に少なくなった。元々、Lは興味を引かれた事件にしか首を突っ込まず、またその興味を引くポイントはとてもではないが常人には理解不能だ。今や、殆どの難事件の類は一旦、夜神月の元へと届けられる。そもそもがLと渡り合う人間であり、なおかつ事件の選り好みもしない(できない)とあらば、そうなるのは当然のことだった。夜神月は、現在キラではない。正確には、キラの記憶を持たない、只の夜神月だ。ノートを取り上げられ、監禁生活を余儀なくされた夜神はそれから程なくしてノートの所有権を自動的に剥奪され、一時期Lと四六時中生活を共にしていた、あの頃の彼になった=B松田などは戻った≠ニ形容しているが、Lだけは頑なにその表現を貫いた。
 Lの生活は平穏だった。時折事件や揉め事が舞い込み、それが一般市民ならば関わることも稀なものであることを覗けば、だが。平穏で、平和で、何とも退屈極まりない日々。贅の限りを尽くして供される目の前のアフタヌーン・ティーにもさほどの感慨は沸かない。がりがりと行儀悪くスコーンを齧るLは、一瞬だけぴたりとその動きを止めた。
「………」
 がりがりがり。
『おぉう、流石にそのリアクションは予想してなかったぜ。ってか、無視するなこっち見ろおい』
 がりがりぺろ。指についたクロテッドクリームとオレンジマーマレードまで綺麗に舐め取ってから、Lはようやく振り向いた。
「………何の用だ死神」
『ははっ』
 久しぶりに相対した死神は、白い歯を覗かせてきしきしと笑う。黒く尖った指先が、ゆっくりとLの足元付近を指差した。
『なに、大した用じゃねぇ。ちょーっと落し物を探しにな?』
「……お前」
 Lが睨んだ所で何ら痛痒を感じないらしい死神は、にたにた笑っているばかりだ。あの夜神月と数年を過ごし、それでも情の欠片をお互い抱きすらしなかったことを考えると、それも当然のことだろう。死神にとって人間とは、精々が餌か遊び道具だ。
『俺はうっかり又ノートを落っことしちまったんで、探しに来たんだ。俺はそれを拾って死神界に帰ろうと思うんだが』
「…そうか、ならそうしたらどうだ」
『おぅ、そうさせて貰うかな。んでも、遠いなー、拾いに行くの、面倒だよなぁー』
 椅子の背もたれ近くに、リュークは浮かんでいる。椅子の足元近くに、漆黒のノートは落ちている。死神はにやにやとLの顔を覗き込んだ。
「……さっさと行け、死神」
『夜神月は、ありゃもう駄目だ。少なくとも、今は使いモンになりやしねぇ』
「…何だと?」
 何がLを刺激するか、すっかり知った顔で死神はその回る舌を走らせる。きっとその舌は、イヴを唆した蛇の形をしている。
『自分がキラだったことを覚えちゃいねぇ。ただ、家族の為に与えられた役割を果たすことだけは覚えてやがる。血生臭い事件の解決やら、機械の箱の改良やら何やらよぉ、あの上等の頭をフル回転させてるが、その癖アレは退屈しまくりだ』
「なら」
『今のアレに渡してもな、キラにゃならねぇな。退屈の原因はよぉ、仕事じゃねぇからだ。はは、判ンだろう、名探偵殿?』
 もしやこの死神は、これでも夜神月に対して猫を被っていたのだろうかと、どうでもいいことをLは考えた。死神の台詞の中身が、どうしようもなく理解できた。Lである己に、期待される仕事は果てしなく大きく果てしなく充実していて、およそ謎に飽きることのない自身にはうってつけではあった。しかし確かにLは、退屈していたのだ。それは一体何にか等、果たして誰が知るものか。


 Lは―――否、私は―――笑い出した。堪えきれる筈もない。
「…は、はは……、此処まで、そうか、此処までか」『perfect!』死神は大仰に手を叩いて大喜びだ。
 此処までか。此処まで、私たちは。
『素晴らしいな、人間は!その小せぇ頭がなまじ性能良いと、周りと馴染むことすら出来ねぇ!なぁ、知っているか。お前と夜神月は俺の目にゃ瓜二つなんだぜ。全然似てねぇ双生児だ』
 当然だ。私たちは魂の奇形双生児だ。私たちは胎盤を同じくして生まれ出た。
 高校生だった夜神月は、ノートを拾ってキラを内に芽生えさせた。彼は全てに倦んでいた。その頃例え私がノートを拾っても、キラにはなりえなかっただろう。その差はほんの些細な、僅かなものだ。私と彼は同じく、周囲の環境には飽き飽きしていた。歯車の噛みあわない周囲の人間に、苛立たしさを越えて殺意にも近い衝動に駆られることも少なくはない。しかし私には満足し得るだけの仕事があったが、彼には一般学生と同じだけの(学生のレベルとしては最高ではあったが)ものしか与えられなかった。彼は全てに倦んでいた。
 そして現状を見るがいい。彼は記憶を失ったが、才能に応じた役割を(強制的にではあるが)与えられこなしている。キラではない夜神に、私の記憶などさほど残ってはいないだろう。だが私は、夜神の居た空間に慣れ過ぎた。たかだか数ヶ月のあの時間が、私にとって、一体どれだけ。
『あぁ、これだから人間は面白、なんだ。死神なんてやってらんねぇぜ?』
「黙れ死神。お前のような悪趣味な輩は、死神で十分だ」
 私は椅子に座り直した。あの、いつもの膝を立てた座り方ではなく、極普通の座り方だ。推理力は半減するが、今必要なのはそれではない。ゆっくりと、足を下ろす。足先が、柔らかな絨毯ではなく、ひんやりと冷たい、ノートに触れる。
「私はお前を好ましく思っていない。正直に言えば疎ましい」
『おぉ、そうだろうな。普通の人間はそうさ。平然と俺と同居してた、月の方がおかしい』
「お前のやり口にも吐き気がする。あの時の面白い云々の意味を理解した、今は余計にだ」
『いいじゃねぇかよ、死神なんてよぉ、娯楽のひとつもなきゃ、やってらんねーぜ?それに、ある意味慈善事業だとも言えるだろう?』
「お前にも、多少は夜神月へ思う所があるとでも言いたいのか。笑わせるな」
 そのノートは、何の変哲もない黒いノートだ。ただ英語で(普通に読める言語な所が、また真実味を薄れさせる)表紙には、そのノートの真実が記されている。そこに自分の名を書けば、私はあっという間に黄泉へと旅立つこととなる。
『なら、そのノートを俺に回収させるか?なに、何もしていないお前の記憶がどうにかなることはない。俺が腕を伸ばしゃ終わりだ』
「………はは……」
 私は声を出して、笑う。笑い声など、上げたのは何年ぶりだろうか。笑わずにはいられない。
「死神」
『何だ?』
 漆黒を身にまとった死神は、人間の魂を狩る存在なのだ、と唐突に私は思い知った。
「……夜神は、たった一件で気づくだろうな」
『ああ、当然だ。例え事故死と書こうが、病死と書こうが、あいつは気づくぞ』
 今や、L≠ノ近いのは皮肉なことに、夜神月なのだ。二代目を名乗っていた頃とは別の形で、夜神は世界からL≠ノ相似したものとして認識されている。夜神月はキラを失い、Lを手に入れ、そして私は。
「お前を否定して非難して、ここからさっさと放り出してやりたいのに。しかし何故だ?何故私は、」
 夜神月から、キラを奪ってやりたいと、思った。キラを与えてやりたいと、思った。あれは私のものだ。私しか見ていなかったのだから、私が貰い受けても構わない筈だ。そして深窓の麗人は、あの真っ直ぐな目を私へと向けることだろう。
 その瞬間だけを恍惚と思い浮かべ、私は黒のノートを拾い上げた。契約完了だ、と囁くのは、死神の形をした蛇だ。


 最も度し難いのは、一番の障害となるだろう白髪の子どもの本名を、記憶の棚から引きずり出しにかかっている自分だと、私はとうに自覚していた。





 こんな最終回希望(L月的に)


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