「良い子だ」
 彼は私のそこへキスをしてくれる時だけ、とても柔らかな顔を見せてくれる。





//デコレイト・ホイップクリィム//





「ほら」
 渡されたのは小さな素っ気無い裸の鍵。
「ライト」
「引っ越すのは再来週頭くらいでどうだ?」
「うん!」
 手の中にある銀をためつすがめつ、そしてとびきりの笑顔のままで冷たいそれにキスをする。彼の表情はそれに勝るとも劣らないほどに冷めていたが、そんなことは最初から承知している。私は彼を肉体的に独占することは何とか許されていても、精神的には彼に寄り添うことすら叶わない。
 彼は何処までもひとりだ。
 かつて。かつてはいた。
 彼を苛み、彼が憎み、彼を追い詰めた男が。
 あの男は彼の対極だった。
 そして私は彼の足元だ。何処までも彼に付き従い、彼の望みだけに身を砕く。
 私はあの男の淀んだ目に、爬虫類のおぞましさを感じてどうしても好意を抱くことはできなかったが、それでも判る。あの男と彼が対極だったように、私とあの男もまた、対極にいた。
 手に入らないものをそうと承知しつつ、焦がれた者同士だった。
 そうと気づいた今、しかしあの男はもういない。
「ライト」
「何」
 素っ気無い態度など今更意に介せず、私は彼の胸元に顔をうずめた。
「私はずっと貴方の隣にいるわ」
「ん…そう」
 さら、と形の良い彼の指が、私の髪を梳いてゆく。ぞくぞくと心地よさが背筋を伝った。
 その指はまるで砂糖菓子。吐きたくなるくらいに甘く、私ごとどろどろの不定形物に仕立ててしまう。
「私は貴方の槍。私は貴方の盾。弥海沙は夜神月のもの。好きに使って」
「…良い子だ」
 嗚呼!
 耳元で囁かれた褒め言葉。私の中の雌が歓喜に叫ぶ。体の中心が溶け出てしまいそう。
「良い子だね、ミサ」
 繰り返しそう言って、彼はそれはそれは綺麗な微笑を浮かべ、私の頭を撫でてくれた。
 それだけで、私の思考も体も蕩けそうになる。彼が私を見、こうして軽く触れてくれるだけで、もしかしたら絶頂を迎えることだってできるかもしれない。息詰まるほどむせ返る、甘い甘いホイップクリィム。頭のてっぺんまで埋もれて私はきっと死ねる。
「ライト」
 うっとりと、私は彼を見つめた。彼が私を見ていないことなど知っている。
「愛してる。大好き」
 そしてこれが児戯にも等しいと、誰より私が知っている。
 しかしそれが何だと言うのか。
 もう彼の周囲には誰もいない。かつて存在していたあの男もすでに舞台から降りた。それならば、今彼に最も近いのは私であるはずなのだから。
 それだけで、いいのだ。
「知ってる」
 彼は自分から積極的に私に触れることはなかったが、ただ一箇所だけ例外があった。
 おねだりするように瞳を閉じると、瞼に彼の唇が軽く押しつけられた。その熱さは一瞬で離れていってしまうのだけれど、私は嬉しさの余り目の前の細い首にかじりつく。
 この人の武器になれるのなら、命なんてどれほどの重みがあるのだろう?
 この、一瞬の熱を得たいがために、私は幾らでも対価を払おう。  純粋な子どもの夢を実現させるためだけに突き進む彼のために。


 とても綺麗に笑む彼は、甘い甘い夢の国の王子様。


(いつか貴方は夢から醒めるように当然のように壊れるんだわ)


 そして私は壊れた貴方をなくなるまで全部、猫のように舐めとるのよ。