ほんの僅かな男の動きも、月は見逃さなかった。月が見逃す筈がなかった。
 いつも甘味ばかり放り込んでいたその口内を探ると、やがて予測通りのものが見つかり、月はほわりと色づくように微笑んだ。





// 胃の腑、恋文 //





 敵対する者をこれで一掃できる最高の好機だとほくそ笑みながらも、自身が追い詰められていることを水面下で月は感じ取ってはいた。
 ただそれは無意識にも近い。敗者の立場から最も遠かった月は注意力に長けてはいても危機管理能力はさほどではない。例え追い詰められている自覚があったとしても、物怖じするような性格には生まれついていなかった。
 もうすぐ。
 そろそろ出発するとの知らせを受け、月はことさらゆっくりと身支度を整えていた。整えながら、思考は様々に迷走する。
 もうすぐ、終わる。そしてまた始まる。
 お前は死ぬよ………まがいもの。
 それがあまりにもあっさりとした、感慨とも呼べない単なる感想であったことに、月自身眉を潜めた。糊の効いたオフホワイトのカッターシャツは肌触りがとても良く、細いストライプの絹ネクタイは一度で綺麗に締められ、皺ひとつない上着に袖を通し、それでもなお、何ひとつ心沸き立つものはなかった。
 やはり同じようにはいかないものだ―――我ながら拗ねた子どものようだと判ってはいるが、そう思わずにはいられない。何もかも、ひとつとして、あの時のようにはいかないものだ―――あの一瞬はもう、とうに過ぎ去ったのだから。
 あの全身の高揚、頬の紅潮、気温からではない発汗、熱に浮かされた瞳、必死で押さえ込んでなお溢れ返る、殺意、殺意、殺意。
 ジェットコースターで急降下、宙返りを繰り返すよりも心揺さぶられ、うっとりと瞳蕩けさせた、あの一瞬。


 するりと指先が自然に左手首の金属をなぞる。
 今は亡き父から贈られた腕時計が嵌っている。当時高校生の息子への贈り物としては不相応な程に上等なものだったが、何故だか月にはそれがとてもよく似合った。貰った当初から肌身離さず身につけてきた代物だ。当時と今とでは、その時計の持つ意味、役割も大分違うようになってきたが。
 素早く4回、リューズを押すと小さな紙片が現れた。火口卿介を葬った時収められていた、神経質なまでに正確な正方形の紙切れではなかった。皺だらけですっかりよれよれになり、そもそも切り取ったのではなく千切り取ったのだろう端の引き攣れ。夜神月の性分からすればありえない。
 当たり前だ、この紙片を手にしていたのは。いたのは……


 薄汚れたそれを、夜神月は丁寧に摘み上げた。





          +++





 それは前触れもなく訪れる、天災のような衝動だ。
「ア、ア、ア、ア…っ」
 貫かれ、揺さぶられる度に月の薄い唇から悲鳴のような声が漏れる。ゆさゆさと、突かれる度勝手に上がる声は、まるで自分が組み敷く男の奏でる楽器にでもなったようだ。
 すっかり体温で温くなったシーツに顔を埋め、月は脳内を真っ白に塗り替える快楽に溺れていた。じゅぶじゅぶと己と男の下半身からは淫らな水音が響いてくる。
「ぁふ、あ……あぁっ!」
 月を四つん這いにし、我が物顔で圧し掛かっているのは竜崎だった。様々な呼称を名乗る男を、月は竜崎と呼んでいた。
 気味の悪い男だった。流河、竜崎、エル。異常な姿勢を好み異常な味覚を愛し異常な思考回路を持った男。どんよりと死んだ魚のような目をしていながら、中心に眠る真実を残酷なまで明確に見通す男。世界の警察機構が翻弄されていたキラを、あっさりと見つけた男。キラの思考回路を、嫌味なまでにトレースしてくる男。
「…ははっ」
「ご機嫌ですね?」
「ん、不機嫌にならな、きゃならない理由でも、ある、のかな?ベッドの中では愉しむ主義でね」
 洩れた小さな笑いにも、竜崎は動きを止めて月の様子を伺ってくる。男の力は見た目の貧弱さを裏切ってかなり強い。きっと月の細い腰には呪われたかのような手形が2つ、くっきりと浮かんでいるはずだ。
 トレース。トレース、ね。月は小さく呟く。
 追跡。そうだお前は追跡者だ。キラのみを追う、鼻の大層利いた狩猟犬だ。
「ふふ……はぁ、っ……ア!」
 ぐるりと、急に体勢を変えられ堪え切れなかった悲鳴が零れる。
 片足だけを不意に掴まれ、強引に横向かされる。上げた左足を肩にかけ右足に圧し掛かり、男はぐいと更に奥深くまで侵入してきた。ずるりと、己を貫く肉の角度と深さが変わった。
「ァあう!」
 突然の刺激に、零れたのは悲鳴だけではなかったようだ。荒く呼吸しながら、己の性器に手を伸ばす。先走りだけではない、白いものに塗れたそれは、僅かばかり硬度が落ちていた。
「…ふ…っ、は、ん……」
 そのまま、竜崎に見せつけるように月は自身を愛撫した。ぬるりと体液を馴染ませるように指で作った輪を上下させ、もう片方の手で先端を弄くる。やがて体液の糸が指先と性器を繋げ、萎えていたそれは硬度と角度を取り戻した。
「……ふふ、どう、したの……いつも以上に間抜けな顔だ」
「…貴方こそ、どうしたんですか…?月君」
 月君、ね。ライト君。
 夜神君、月君、夜神、夜神月。自分への呼称をこの男は淡々と増やす。きっと、いや既に竜崎の中で次の呼び名は決まっているだろう。
 キラ。
 揺さぶられながら月は竜崎の声を聞く。目も眩むような快楽の狭間で、彼が己を呼ぶ声だけを聞く。
 キラ。
 狩猟犬は常通りの不気味な―――やや瞳孔が散大している―――表情で、のっぺりと月を見下ろしていた。
「ほら、来い。竜崎?」
 にやりと笑い、月は自慰していた手をするりと奥へと回した。ずぶずぶと、泡を立てて男を飲み込んでいる結合部に行き着く。限界まで広がった後孔は、よくまぁ裂けないものだと人体の不思議に関心すらしてしまう。
「あぁ―――入ってる。入って、るね。お前」
 そのまま小刻みに肩を震わせ、笑いながら月は自身の尻たぶを掴み、ぐいと更に押し広げた。そして伸ばした指先で、結合部から僅かに突き出た、男の性器をついと撫で上げる。さわさわと指の腹で触れてやると、一気に質量が増したのがそれこそ感覚で判った。
「月君……っ」
「ぁはっ、……ははっ、ァぁア!んぁっ、」
 限界まで足を開かされ、間に竜崎が分け入って来る。演技ではなく悲鳴も涙も本物だ。しかも止めようがない。ずんずんと突き上げられる度に、耐えられないように茶色の髪がばさばさと振られる。
「んっ、んぁ!っは……気持ち、イ…っ」
 ―――最ッ高。
 過ぎた快楽と苦痛に歪む瞳は快感にも歪んでいた。この男の与えるものは何であれ全てが最高の最上級品ばかりだ。快楽も、知的刺激も、殺意も。
「竜…崎…っ、」
 無理やりに上体のみ仰向けにして、月は狩猟犬へと腕を伸ばした。抱えられた自分の足ごと、男の首を抱きこんでやる。ぐいと引き寄せれば、ずぶり、とまた男が深く沈むのが判った。
 お前は狩猟犬だよ、竜崎。
 僕を何処までも、最短距離で追ってくる、犬だ。
 どう歩いても、男は必ずついてくる。まっすぐに、月だけを見てすぐ後ろについてくる。寄り道をしても、不意に曲がっても、竜崎が方向を違えることはない。もし、例えば、の話だ。月が間違った道に入り込んでしまったら。竜崎は長い腕をずいっと伸ばし月を元の道に引き戻すだろう。そしてまた、月の後ろを歩くのだ。ずっと、ただ。
「…何ですか?」
「……お、前が……っ」


 夜神月をキラに戻した。


 最初に誘いをかけてきたのは、竜崎だった。
 お互いがお互いの真意を測りながら、それに最も適した距離からまず測っていた時期だった。
「なに?世界の誇る探偵さんは男色家?それとも面食い?どっち?」
「どちらも違います。性的欲求は普通に女性に対して向かいますし、顔の美醜は私の判断基準にありません」
「ああ、お互い様ってことか」
「……それ、私の返事の主に後半にかかってますね」
 無表情ながらも、どうやら少しは落ち込むもしくは沈むかのような雰囲気は出せたらしい。悪癖である親指しゃぶりをしながらの竜崎の台詞に、月はことりと小首を傾げた。
「じゃあ僕の容姿はどう見えてるのかな?世間一般の、じゃなくてお前の判断基準で聞こうか」
「……私の返事など気になるんですか?それとも、その返事如何で」
 にっこりと笑い、月は行儀悪く立てて座っている彼の膝頭をするりと撫で上げ、
「わざわざ己のリビドーまでひっくり返してくれてるんだ、朝まで付き合ってあげてもやぶさかじゃないね」
 非常に驚くべきか、幸運だったというべきか。身体の相性は抜群に良かった。


 いや、違うな。
 飛びかけた意識の中で、月は思う。
 相性が良くて当たり前だったのだ。
 初めて味わう種類の快楽に、そのことに思い至らなかったけれども。それは当然至極のこと。
 自分と男は、同じ形をしていたから。重なる部分と、正反対な部分だけで構成された自分たちに、お互い以外が介入などする余地は最初から、なかったのだ。
 それを、もう数えるのも馬鹿らしい程に数をこなした逢瀬の最中、月は考えていた。考える余裕ができたのも、つい先日―――もっと正確に言えば、あの2人を物理的に拘束していた、手錠が外された昨日からだった。
 記憶を失くす前は、殺意だけだった。彼の誘いに乗ったのも、こういうアプローチを仕掛けても構わないだろう、と考えたからだ。いつ、何処で、どのようにして男を殺すか。障害を排除するか。月の優秀な頭脳を占めていたのは、全てこの男だった。
 手錠で繋がれていた時は、戸惑いだけだった。何故自分が抱かれているのか理解できていなかった。竜崎とのやり取りを覚えていたにも関わらず、あの時の自分がどうしてイエスと返事をしたのか、判らないままだった。判らないままに、意外と優しく抱いくる竜崎に、若干ながら絆されもした。懐いてくる生き物に悪感情を抱く者はいない。
 そして今の月には、絶望的なまでの快楽しかなかった。竜崎に抱かれて竜崎を感じる。そうだとも、感じているのだ。お前を。
「ふ、ぁふふ…っ、ンぁ、あは…ッ」
 先ほどから、月の咽喉から零れるのは悲鳴なのか嬌声なのか笑声なのか判別すらつかなかった。ばちばちと何処か遠くで火花が散っている。それは自分の思考をゆっくりと鈍らせ、そして真っ白に塗り替えていく。穿たれる楔は熱を孕み、ぐずぐずと内側から月を溶かしていってしまうつもりなのか。溶け出た所で、あまりにも似すぎた自分たちはこれ以上近づけやしないのに。
「あ、はははははは……っ、ははっ…、っ、ア―――…!」
 中に放たれた男の精に、月はいっそ孕んでしまえば判りやすくて良かったのにな、と馬鹿なことを考えた。


 それはあっという間だった。
 その瞬間はあっさりと訪れ、そして波が引くように去っていった。


 竜崎は死んだ。
 月が、殺した。


 あの心躍る瞬間を月は忘れない。彼の低く、それでいて滑らかな声が不自然に途切れ、ぐらりと肢体を冷たい床へと転がり落ちたあの瞬間。彼の名を叫びながら、月はまるで竜崎に今まさに抱かれているかのような錯覚に陥っていた。
 全身の高揚、頬の紅潮、気温からではない発汗、熱に浮かされた瞳、必死で押さえ込んでなお溢れ返る―――殺意、殺意、殺意。竜崎に抱かれながら竜崎を殺す感覚はえもいわれぬ悦びだった。
 周囲に誰もいなければ、閉じた瞼にキスのふたつやみっつは落としていただろう。
「竜崎!」
 お前はあの白い死神ではなく、僕の手にかかって死ぬんだよ。だってそうだろう?僕たちの終わりにはそうあるしかない。


 気づいたのは、当然だった。
 死神レムの成れの果て、乾いた砂の固まりに埋もれた黒のノートを手にし、月は隅々まで眼を走らせ頁を繰っていった。
 竜崎はノートの信憑性を実際に実験してみるつもりでいた。死刑囚を使うとはいえ、あっさりノートを使用しようとする男に、当然ながら善良かつ正義感溢れる刑事たち(当然父も含まれる)は反発し、流れは一時止まった。
 しかし、あの手段を選ばない男がそれだけで引き下がるものか。なりふり構わず、お互いだけを見るのがいつの間にか、キラとエルとの間の絶対になっていたではないか。ならば竜崎が、エルが取るだろう行動は。
 月の指が止まる。
「……竜崎」
 小さく呟いた。ノートの隅が、少しだけ―――ほんの2センチ四方程度だ―――破れている。いや、破り取られている。それを確認し、月は冷たくなった竜崎のいる部屋のドアをくぐった。
 月の父は竜崎の遺体を早々に荼毘に付すために駆け回っている。他の刑事たちは死神とワタリの姿を探し歩いている。どちらもとうに命尽きていると知らず。遺体の上にかけられた総一郎の上着を、月は振り落とした。眠っているようだ、とは思わない。竜崎という男は寝ていても奇妙な格好でいることは止めず、また他人の気配には驚くほど敏感だった。少なくとも、突然月の膝上に頭を乗せられて目覚めないはずがなかった。
 ゆっくりと、慎重に。月の細く白い指が閉じられた竜崎の唇をこじ開ける。いまだ口内は生温かい。奥まで指を伸ばしていく。咽喉元ぎりぎりまで突きいれ、丁寧に探ると、異物感に行き当たった。
 ずるずるとそれを引きずり出す。小さな、小さなそれは白い紙片のようであった。元々小さいそれを、更に乱雑に四つ折にしてあった。綺麗な辺がふたつ。荒れた辺がふたつ。何かの紙から、小さく千切りとったと思われるそれ。
 慎重に開け、眼を通し、そして月は満足げに微笑んだ。


『 夜 神 』


 小さな紙に、掠れた鉛筆で、小さく乱暴に書き殴られた文字は、ふたつだった。
 夜神。
 夜神夜神夜神夜神夜神夜神夜神夜神夜神夜神夜神夜神夜神夜神。


 …あと一文字、足りなかったね。





          +++





 あれから4年だ。
 元から薄かった文字はとうに肉眼では判別しきれない。紙片そのものも黄ばみ、脆くなっている。
 しかし月の目には、まだ読み取れるのだ。そこに書かれていた、二文字が。
 あの男がいつから紙片を手にしていたのか。いつ文字を書き連ねたのか。いつ口の中へと放り込んだのか。
 竜崎が何を考えて、月の名を記しかけたのか―――それは月ですら、判りかねた。判り過ぎて、判らなかった。ただはっきりしているのは、月は躊躇なく竜崎の名を書き(正確には書かせた、だが)、竜崎は書ききることができなかった。それだけのことだ。それだけのことで、以後の数年がどれほど変わったか。
 荒れた文字。竜崎は意外なほど機械的な字を書く男だった。月の方がまだクセがある。乱暴に書いただけではない、震えていたのか?これから己が人を殺すことについて?それとも、名を記す相手を思って?お前の首が今まさに大鎌の真下に据え置かれたというのに、お前はたかだか大学生の名ひとつを書くのに、これほど躊躇して?
 それでも―――本当に死ぬのなら。殺すのなら。キラ以外にはありえないと?
「……馬鹿な奴」
 どうしても最後まで書けなかった名前を、それでも後生大事に持ち、最期には飲み込んでしまおうだなどと。





           +++





 摘み上げた紙切れを、月は無造作に口内へと放り込み、あっさりと飲み込んでしまった。
 咽喉に引っかかる不快感に、月は最高の愉悦の中へと放り込まれた。





 もう後ろにいないお前は其処に。


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